27歳までバンドマン、46歳で独立して六本木へ|株式会社フードコネクト髙山社長の「踏ん張る・逃げない」「人をつなぐ」仕事観

やりたいことがわからないまま20代が過ぎていく。このまま今の仕事を続けていていいのか、今から新しい道に挑戦しても遅いのではないか。そう不安に感じている方は少なくありません。
27歳までバンドマンとして過ごし、その後ナイトクラブの超ハードな現場で踏ん張り続け、46歳で六本木に雪むろ芳醇和牛の店を構えたのが、株式会社フードコネクト代表取締役の髙山淳さんです。
決して順風満帆ではなかった道のりから、「遅いスタートでも、現場で逃げなければキャリアはつくれる」ことを教えてもらいました。今の場所でどう踏ん張るか、次の一歩をどう決めるかのヒントが見えてきます。
株式会社フードコネクト
代表取締役 髙山 淳
新潟県上越市高田出身。大学進学を機に上京し、27歳までバンド活動に打ち込む。その後ナイトクラブ業界で現場スタッフから支配人、副社長を経験し、イベント運営や店舗マネジメントを学ぶ。実家の精肉店「肉のいろは」が手がける雪むろ芳醇和牛など新潟の食を東京で広めたいという思いから、46歳で独立し六本木に焼肉店を開業。食を通じて人と地域をつなぐ店づくりを続けている。
バンドマンから夜の仕事へ。27歳で現実と向き合った決断
編集部髙山社長は、27歳までバンド一本だったと伺いました。その頃の髙山社長が、今の道に進むまでにどんなことがあったのか教えてください。



私は今52歳で、新潟県上越市の高田出身です。大学進学で東京に出てきて、そのまま東京で働き続けてきました。仰るとおり、若い頃はバンド活動一本でした。大学を卒業してからも就職活動はせず、アルバイトをしながらライブばかりしていたんです。



音楽で食べていきたい、という気持ちが強かったんですね。



そうですね。ただ27歳のときに「このままだと30歳で本当にまずいぞ」と急に現実が見えてきて。同期はみんな社会人4〜5年目なのに、自分はまだバンドマン。どんどん開いていく差が、怖くなりました。



そこが最初のターニングポイントだったと。



はい。とはいえ、きれいに就職する気持ちにもなれなくて。最後の区切りとして曲をたくさん作って、レコード会社に送りました。返事を待っている間に、原付にテントとリュックだけ積んで3,000円握りしめて、「どこまで行けるか」旅に出たんです。最終的に広島まで行って、バイクが壊れてヒッチハイクで帰ってきました。



かなりアクティブですよね。うらやましくなる話です。



戻ってきてレコード会社からの返事を開けたら、全部ダメで。「じゃあ、音楽はここで区切りだな」と決めました。そこから「どうやって食べていこうか」と考え始めたんです。



そこから、今につながる道にどう入っていったんでしょう。



スーツを着て会社員になるイメージは全くなかったので、「いつか自分の店を持ちたい」と思いました。お酒が好きだったので、最初は「バーをやりたい」と。そこで、音楽とお酒の雰囲気があるナイトクラブの求人を見つけて、思い切って飛び込んだんです。



20代で「好きなことだけ」で走ってきた人が、現実と向き合いながら現場に飛び込む。その姿勢は、今仕事選びに迷っている20代にもつながる気がします。
ナイトクラブの超ブラック現場で学んだ「働き方の土台」



ナイトクラブに入ってみて、実際どうでしたか?



めちゃくちゃきつかったです。いわゆる3Kどころではなくて。社会保険もない、月470時間働いて手取り20万円みたいな世界でした。ほとんどの人はすぐ辞めていきましたね…。



それは…想像を超えるハードさですね。



ただ、自分は「遊んでいた5年間を3年で取り返さなきゃ」と思っていたので。周りより遅れて社会に出た分、人よりきつい環境で働くしかないと腹をくくっていました。



そこで踏ん張れたのには、どういう理由があったんでしょう?



きついんですけど、現場は楽しかったんです。音楽があって、お酒があって、人が集まって、わちゃわちゃしている。自分には合っていました。気づいたら30歳前には支配人クラスになっていて、新店の立ち上げを任されるようになっていました。



現場で汗をかき続けるうちに、自然と役割も変わっていったんですね。



そうですね。一方で、「バーをやるのは危険かも」ということも見えてきました。ナイトクラブって、週末は1,000人入るけど、平日は20〜30人とかなんです。平日の売上が薄すぎて、「自分のバーをやっても、これじゃ成り立たないな」と。



現場を知ったからこそ、「夢の形」を現実的に考え直したんですね。



はい。その頃、地元の高田に帰ったときに、商店街がどんどん寂しくなっているのを見て、「この街のものを東京で出したい」と思うようになりました。



そこで「新潟の食」に意識が向いたと。



実家が「肉のいろは」という精肉店なんです。兄が五代目で、創業は明治。130年以上続いています。雪室で熟成させた「雪むろ芳醇和牛」というブランドもやっていて、「これを東京で出したら面白いな」と。



地元の歴史あるお店と、自分のキャリアがつながった瞬間ですね。



そうですね。親には迷惑もかけてきたので、少しでも力になりたい気持ちもありました。「新潟の肉や米やお酒を出す店をやろう」と、30代前半でぼんやり決めた感じです。
物件が決まらない、料理長が飛ぶ。六本木開業までのドタバタ



そこから、実際に独立するまではどんな道のりでしたか?



頭の中では30代前半からずっと「いつか焼肉店をやる」と決めていました。でもお金はないし、料理人経験もゼロ。だから、ナイトクラブの仕事を続けながら、お客さんや上司に「新潟の肉で店をやりたいんです」と言い続けていました。VIPフロアには経営者や芸能関係の方も多くて。「髙山くんがやるなら出資するよ」と言ってくれるお客さんが現れて。14〜15年かかりましたけど、その方が今の店の出資者になってくれました。



46歳で独立を決めるのって、かなり勇気がいりませんか?



正直怖かったです。ただ、ナイトクラブ業界で副社長までやって、「このまま50代に入るのは体力的に厳しいな」とも感じていて。社長も僕の夢を知っていたので、1年かけて引き継ぎをして、2019年3月に会社を辞めました。



そこから物件探しですね。



はい。ところが、全然決まらない。やっと見つけた六本木三丁目の物件も、オーナーさんの返事が2カ月こなくて。その間に、いっしょにやる予定だった料理長が別の仕事を決めてしまって、いなくなってしまったんです。



物件が決まったタイミングで、料理長がいない…まさに踏んだり蹴ったりですね。



本当に「どうしよう」と思いました。そんなときに、不動産屋さんが「長野にいる60歳くらいの料理人が東京に出たいと言ってます」と紹介してくれて。すぐ会って「じゃあ、アパートも用意するから一緒にやりましょう」と決めました。



いよいよ開業ですね。



2019年12月9日、「いい肉の日」にオープンしました。最初は元ナイトクラブ時代の知り合いやお客様が毎日埋めてくれて、順調なスタートでした。



そこから順風満帆…とは、いかなかったんですね。



はい。クリスマスの日に、その長野から来た料理長が突然飛んでしまったんです。出勤しないからアパートを見に行ったら、もう誰もいない。私はキッチンができないので、「この予約どうしよう」と真っ青でした。



聞いているだけで胃が痛くなります…。



たまたま近所の店で働いていた知り合いのアルバイトさんが、「髙山さんの店、人がいないみたいだから」と手伝いに来てくれて。周りの飲食店の方にも協力してもらって、なんとか店を閉めずに乗り切りました。



ピンチのときに助けてくれる人がいるのは、普段の関係づくりの結果でもありますよね。



そう思います。そのあとも、ミャンマー人の料理長が無断欠勤してクビにしたり、新しい料理長が決まったタイミングでコロナの緊急事態宣言が出たり…。いい意味で、事件だらけでした。



踏んだり蹴ったりだったんですね…。でも、それでも店を続けてこられたのは、どんな支えがあったんでしょう。



一つは、お客様やスタッフに恵まれたこと。もう一つは、「予約をもらっている以上、逃げたくない」という気持ちです。電話で「すみません、営業できません」と伝えるのは、自分のプライドが許さなかったんです。



お客様との約束を守るために、そこまで踏ん張る姿勢があったからこそ、今の信頼やご縁が続いているんですね。
「コネクト」という仕事観



社名の「フードコネクト」には、どんな思いを込めたのでしょう。



ナイトクラブ時代に、イベントやフェスを企画して、企業とコラボする仕事をたくさんしてきました。スポンサーを募ったり、アパレルブランドと組んだり。お互いにメリットが出る形で「つなげる」感覚が身についたんです。



現場で培った「人をつなぐ感覚」が、今の仕事にも生きていると。



はい。今の店でも、新潟のワイナリーさんやお米農家さんなど、いろいろな方とコラボしています。ホームページにもパートナーの名前を載せて、「一緒にやっていますよ」と発信しているんです。



まさに「フードを通じて人や地域をコネクトする」お仕事ですね。



そうなれたらいいなと思っています。



今は、そうしたご縁の広げ方も少し変わってきましたよね。クラウドファンディングやAIなど、独立や開業の情報を集める方法も増えています。独立するまでの手引きも、ネットである程度は探せる時代です。



そうですね。今は「全部自分のお金で一からやる」と考えなくてもいいと思います。出資してくださる方を求めたり、クラウドファンディングを使ったり、AIで独立までの流れを調べたりもできます。若い人には、昔よりチャンスは多いと感じます。



一方で、髙山さんのようにクラブの世界で十何年かけて土台を積み上げてきた方のお話を聞くと、「ChatGPTでちょっと調べました」というだけの人がやるのとは、同じことをしても重みや完成度が全然違うとも感じます。



立ち上げもイベントも、現場で何度もやってきましたからね。そういう積み重ねが、今のお店を持つときの土台にはなっていると思います。



つまり、AIやネットの情報を使いつつも、現場で積み重ねる時間があるかどうかで、仕事の質は大きく変わるということですね。情報を検索するだけで終わらせず、気になる業界の現場に一度足を運んでみるのが、キャリアづくりには大事だと感じます。
夢を口に出し、小さく現場に飛び込もう





ここまでのお話を伺っていると、27歳まではバンドマンで、そこから現場で積み重ねて46歳で独立された、とても長い道のりですよね。働き始めの20代にとって、どんなところがヒントになりそうだと感じますか。



そうですね。僕は27歳までバンドをやっていて、ちゃんと働き始めたのはそれからです。そこからナイトクラブの現場で必死に働いて、気づけば副社長になって、46歳で独立するところまできました。決して早いスタートではなかったですけど、現場から逃げずに続けてきたことが、今につながっていると思います。



遅いスタートでも、積み上げ方しだいで道はつくれる、という実感なんですね。



そうですね。それと、やりたいことは周りに話しておいたほうがいいと感じています。ナイトクラブ時代から「いつか新潟の肉で店をやりたい」とお客さんや上司に話していたからこそ、「出資するよ」と言ってくださる方が現れました。誰にも話していなかったら、今の店はなかったかもしれません。



自分の中だけで考えていると、そもそも応援してくれる人も現れない、ということですよね。



はい。それと、うまくいかないときほど逃げないことも大きかったと思います。料理長が突然いなくなったときも、コロナで営業が制限されたときも、「じゃあ店を閉めます」とはしたくなかった。周りの飲食店の方やスタッフ、お客さんに助けてもらいながら、なんとか店を休まずに続けてきました。そういうときに力を貸してくれた人たちの顔は、今でもよく覚えています。



ピンチのときに踏ん張る姿勢が、人とのつながりにも返ってきたわけですね。



そう思います。20代のうちは、最初から業界や職種を決めすぎなくてもいいのかなと感じます。僕も、もともとは音楽の世界から始まって、ナイトクラブの現場を経て、今は焼肉店をやっています。「ここなら頑張れそうだな」と思える現場で一生懸命やっていれば、そのときの経験や出会いが、どこかでつながっていくと思います。



今日は、料理長が何度辞めてもコロナで制限されても店をやめなかった髙山社長の「逃げない姿勢」が強く残りました。キャリアはきれいな一本道でなくても、目の前の現場で踏ん張り続けることで、ご縁とチャンスは少しずつ集まっていくのだと感じました。髙山社長、貴重なお話を聞かせていただき、ありがとうございました。








