「”伝える”と”伝わる”の違いなんですよ。」株式会社クロムビジョン・伊藤社長が51歳で始めた『映像で医療を説明する』というお仕事

病院で治療の説明を受けて、最後に「何か質問はありますか?」と聞かれる。特にありません、と答えて診察室を出る。でも、自分の体に何をされるのかは、実際はよくわかっていない…。

患者さんが自分の受ける治療を理解できないまま受けている、と気づいた株式会社クロムビジョンの伊藤彩社長は、実際の医療現場にカメラを入れ、その映像を届けるお仕事をしています。

「”伝える”と”伝わる”の違いなんですよ」。

そう話す伊藤社長は、NHKで30年近く映像をつくったあと、51歳で早期退職して会社を立ち上げました。今回はお仕事にかける想いや具体的な内容について、じっくりお話を伺いました。伝えることと、実際に伝わること。このふたつには、大きな違いがあることがわかります。

お話を伺った人

株式会社クロムビジョン

代表取締役 伊藤 彩

1993年、大学卒業後にNHKへ入局。報道局ディレクターとしてキャリアを始め、40代で管理職のプロデューサーに。福島、福岡での勤務を経て、最後の4年間は医療番組を担当した。2022年に早期退職し、株式会社クロムビジョンを設立。実際の医療現場を撮影し、患者に治療を説明するための映像を制作している。

目次

ちっとも伝わっていない、という経験を何度もして

写真:28歳、障害者施設で起きた事件被害者の取材時

編集部

伊藤社長は、NHKに30年近くもいらっしゃったんですよね。

伊藤社長

はい。大学を出た1993年にNHKに入社して、ディレクターとしてずっと番組をつくっていました。40代初めに管理職のプロデューサーになって、地方は福島と福岡を経験しています。

編集部

ディレクターというのは、担当する分野が決まっているものなんですか?

伊藤社長

記者だと、自分の専門領域をずっと続けるケースが多いんですが、ディレクターはそうではなくて、その時の旬のテーマであれば何でも取材ができるんです。私は報道畑だったので、どんなジャンルでも撮れる立場でした。その中でも医療は、割と好きなテーマでしたね。

編集部

医療の分野が好きだった。そこが、いまのお仕事にもつながっているんですね。ちなみに、30年やってこられて、いちばん難しかったことは何でしょう?

伊藤社長

一生懸命伝えてるんだけど、ちっとも伝わってないという経験を、仕事の中で何度もしました。どうしたら伝わるようになるのか、どうしたらわかるようになるのか。それをずっと探し続けていたんだと思います。

編集部

言葉を尽くせば伝わる、というものでもないんですね…!

伊藤社長

はい。伝えることは比較的簡単にできるんです、誰でも。ただ、本当に理解するように伝わっているかどうかは、すごく大きなハードルだと思っています。”伝える”と、”伝わる”の違いなんですよ。30年近くやってきましたけど、いまも完璧にできているとは思いません。だからこそ、わかるように映像を構成できて、論理も構成できて、見ている人が腑に落ちる。それができるとやっぱり、すごく嬉しいなと思うんですよね。

初めて自分がどんな治療を受けたのか、わかった

編集部

NHKでの最後の4年間は、医療番組を担当されていたんですよね。

伊藤社長

そうです。その時に、番組に出演した先生から、「この番組を患者さんへの説明に使っていいですか」というお問い合わせをいただいたんですよ。

編集部

先生のほうから、そう言ってこられたんですか…!

伊藤社長

はい。それから、出演された患者さんがご自身で番組を見て、「初めて自分がどんな治療を受けたのか、わかった」と仰ってくれて。

編集部

ご自身が受けた治療なのに、番組を見て初めて…!

伊藤社長

お医者さんは説明に困っているし、患者さんは理解できないまま治療を受けているんだな、ということがわかりましてね。それを解決するには映像が有効なんだろう、というところに大きく気づいたんです。

編集部

お医者さんが説明に困る、というのは具体的にどういう場面でしょう?

伊藤社長

大きい手術だと、ご本人に1時間も2時間もかけて説明されるんですよ。それで本人への説明は終わっているのに、遠方にお住まいのご家族からもう1回説明してほしいと言われる。週末や夜間に対応せざるを得ない状況は、よくあるそうです。

編集部

同じ話を何度も繰り返しておられるわけですね。

伊藤社長

お伝えする中身って、治療の基本の部分と、その病院ならではの特徴と、お医者さんにしかできない説明の3つに分けられると思うんです。基本の部分はどの患者さんも知っておいたほうがいいことなので、それなら何度も口頭で説明するより映像のほうがいいんじゃないかなと。そうすれば、先生にしかできないところに時間が割けるじゃないですか。

編集部

たしかに、医療現場の負担軽減にもなって、患者さんはしっかりと説明責任を果たしてもらいつつ、治療の内容も理解ができる…。

伊藤社長

そうした考えの根っこにあるのは、父のことですね。父が最期を迎える時に、自分の状況をきちんと正しく理解して、どういう選択肢があるのかを理解した…。それで初めて、「じゃあ俺はこうしてほしい」というお願いを口にすることができたんです。その時に、医療者も家族も、父が設定したゴールに向かって進むことができたんですよ。

編集部

ご本人が決められたから、周りも動けたんですね…!

伊藤社長

どんな医療を選ぶのかは、死に向かう時も、生きるための医療であっても、患者さんにしか決められないことだと思うんですよね。

編集部

そういった経緯もあり、51歳で早期退職され、治療や手技の内容を患者さんに映像として届けるサービスをご自身で立ち上げられたんですね。

素人には撮れない映像

編集部

実際には、どうやって映像をつくられるんですか?

伊藤社長

実際の医療現場で、カメラを回します。シミュレーションや再現ではなくて、そこで行われていることをそのまま撮るんです。

編集部

現場に入るのは、伊藤社長ご自身ですか?

伊藤社長

私も入りますが、信頼できるカメラマン、信頼できるディレクター。私のキャリアの中の人脈で、一緒に制作していきます。これは、素人には撮れないので。というのも、医療現場を撮るのって、理解できていないと何を撮っていいかわからないんですよ。

編集部

たしかに、ホームビデオとは全く勝手が違いますし、何より間違いがあってはいけないですもんね…。撮影の前にも、入念な準備をされているんでしょうね。

伊藤社長

撮影の前に1回、現場に行って、治療する様子を全部見ます。そこで事前にどんな風に行われるのかを取材して、どういう手順でどの角度から、どのような映像を撮影するかを決めていく感じですね。

編集部

いま形になっているのは、どんな映像でしょう?

伊藤社長

麻酔の映像ですね。麻酔にも実は色々あって、全身麻酔と局所麻酔があります。局所麻酔は4種類あって、麻酔に関連する医療的な処置は5つもあるんです。ぐらいあるんですよ。

編集部

5…!

伊藤社長

手術の前日は食べないでくださいね、といった注意もちゃんとVTRに盛り込んで、実際に麻酔をかけられる時はこうなります、というのを現場で撮影させてもらっています。挿管(※)まで見せるのは、医療者は結構びっくりされていました。

※…口から気管までチューブを入れて人工的に呼吸を維持するために必要な医療行為

編集部

たしかに、そこまで映すんですか、という気もします。

伊藤社長

ただ、手術のあとに、喉が痛かったり、声がかすれたりすることが起きるんですよ。目が覚めた時に、なんで手術したところとは関係ない喉が痛くなるのかが、そこで理解できるんです。だからこれは見せましょう、とお医者さんを説得しました。

正しく怖がることは、悪いことじゃない

写真:映像開発の共同研究パートナー、名古屋大学医学部附属病院患者安全推進部の長尾教授(中央) 、薬剤師 梅村 朋さん(左)、弁護士 北野文将さん(モニター中央)

編集部

とはいえ、どこまで見せるか。判断が難しそうです。私もちょっとなんというか…、医療現場の映像を直視するのは苦手なタイプで(笑)。

伊藤社長

血まみれになっている患部はやっぱり見せられないので、どこからイラストに切り替えるか、どこまで実写で見せるかは考えますね。ただ、みんながどこで「怖い」と思うかは、私は麻痺してきているんですよ(笑)。なので、スタッフの声を聞いたり、時には母親にも聞いたりしながらやっています。もう80代ですけどね。

編集部

お母様に。それは、いちばん率直な感想が返ってきそうですね。

伊藤社長

医療者は、できるだけ患者さんを不安にさせないように、という方が多いですね。ただ、患者さんが怖がること自体は、悪いことではないと思っているんです。

編集部

怖がることは悪くない、と言いますと…?

伊藤社長

まだNHKにいた頃、新型コロナが蔓延した時はそれをテーマに医療番組をつくっていましてね。あの時は、社会にすごく不安が広がっていましたけど、そんな中で私がやったのは、ウイルスって何者か、ワクチンって何か、免疫って何か。そういう今さら聞きにくいけど実はよくわからないことを番組でガンガンやることでした。自分の体にウイルスが入ると何が起きるのかをきちんと理解すると、闇雲に怖がるのではなく、正しく怖がることができるんですよ。たとえばバンジージャンプをする時に、どのくらいの高さから飛ぶのか、ゴムが千切れたらどうなるかの説明を受けずに挑む人はいないですよね。

編集部

たしかに…。程度がわかって、初めて覚悟ができるんですね…!

伊藤社長

何が危ないかを知っていれば、「先生、これはどういう処置ですか?」と声をあげることができると思うんです。そうやって上がってくる声は、患者さんの安全を担保するために有効だという研究もあるんですよ。

編集部

患者が声をあげること自体がその人の安全につながるわけですね。

伊藤社長

ただされるがままで何も言わないよりも、「先生、今日僕が手術するのは左じゃなくて右ですけど、なんで左を消毒してるんですか?」なんて聞けるかもしれないですよね。

先生は、区切り区切りに喋るんですよ

編集部

治療の説明にAIを使うサービスなんかも、出てきているのではないでしょうか?

伊藤社長

そうですね。先生たちが書いたテキスト通り、AIに読ませるサービスがどんどん増えてきています。でも、確かにAIは伝えてくれます、医療者が書いたテキスト通りに。ただ、それが本当に完全に伝わったかどうかという指標は、いまどこにもエビデンスがないんです。

編集部

それがまさに、伝えると伝わるの違いなんですね。

伊藤社長

私自身も仕事でAIを使うことはありますけど、余計に時間がかかることが多くて。それらしいものができてしまいますし、人の感情にどう刺さるかは、わかったふりをしているだけだと思うんですよ。だから0から1は、絶対にAIにさせないと決めています。

編集部

撮った映像の中で、これはAIには置き換えられないと感じる部分はありますか?

伊藤社長

お医者さんの声かけとか、患者さんの表情。あれだけはやっぱり、AIには絶対できないと思うんですよ。

編集部

声かけ、というのは?

伊藤社長

今から麻酔の薬を入れますね、という一言を、AIに喋らせるとつるんと喋っちゃうんです。でもあの時、先生はゆっくり噛み締めるように言葉を区切りながら語りかけるんですよ。どこかで突然麻酔が効いて意識が落ちるから、あえてそうしているんだと思います。

編集部

台本には、書きようがないところですね…!

伊藤社長

その人間臭さは、その場にいる人間にしかできないと思っています。刺すこと、切ること、入れること、取り出すこと、縫うこと。自分の体にされることは、知っておくことが大事なので。声のかけ方まで含めて、ここがしっかり伝わるといいなと思っています。

編集部

自分の体に刺すこと、切ること、入れること、取り出すこと、縫うことを知るために、伊藤社長は先生の声のかけ方まで撮っていました。何か質問はありますか、と聞いて終わりにしない。伝えたかではなく、伝わったかを確かめる。30年近く映像をつくってきた人が、いまも探しているのはそこでした。伊藤社長、本日は貴重なお話を聞かせていただき、ありがとうございました。

目次